本書の拾い読み:

1. ナポレオンとジョゼフィーヌの間には子供ができませんでしたが、ジョゼフィーヌには連れ子ウジェーヌがいました。ナポレオンによってバイエルンは王国となり、マックス・ヨーゼフは初代の国王となります。ナポレオンはこの国王の娘アウグスト・アマリエをウジェーヌの嫁にして王族の姻戚になることを画策します。国王親子はこれに逆らって逃げ回りますが、ナポレオンの圧力は強く、とうとうアウグスト・アマリエは父親と王国のためにこの政略結婚を承諾し、ミュンヘンで盛大な結婚式が行われます(結婚式の絵)。しかし意外にも夫婦仲は良く、終生添い遂げます。夫ウジェーヌが亡くなるとアマリエは立派な墓碑をミュンヘンの聖ミヒャエル教会に作ります(写真)。二人の間に生まれた娘ジョゼフィーヌ・マキシミリアーネはスエーデン王室に嫁ぎ、王妃になりました。(ホームに戻る)

 

2.  ナポレオンが権力を握ったころ、ドイツは1000以上、バイエルンは100以上の領地に分かれている有様で、20万のフランス軍、15万のオーストリア軍に比べて1万5千のバイエルン軍ではどうしようもありませんでした。オーストリアはバイエルン併合を狙っていましたから、バイエルンとしては存続するにはフランスに頼るしかなかったのです。フランスとオーストリアとの戦争はもっぱらバイエルンの地で行われ、ナポレオンが勝つ度に少しずつ領土をまとめ、拡大して行きました。ナポレオン法典を下敷きにした憲法を作り、プロイセンに30年も先駆けて立憲君主国となり、近代化を果たせたのはナポレオンの力なくして考えられません。その後プロイセンを軸にしてドイツ統一が果たされたため、こうしたバイエルンの先駆性が歴史の記述において無視されたとバイエルンの歴史家は考えているようです。(ホームに戻る)

 

3.  現在のバイエルンの都市で、ニュールンベルク、ヴユルツブルク、アウクスブルク、バイロイト、ウルムなどもともとヴィッテルスバッハ家の領地でなかったところは多く、ネルトリンゲンでは未だに「ここはバイエルンに非ず」といった標識が立っているところもあります(地図)。一方デュッセルドルフのようにヴィッテルスバッハ家からはずれてしまったところも沢山あります。アルザス、北イタリア、ティロールのように支配者が転々としたところもあり、領土に関する感覚が狭い日本とは些か異なると思われます。一方将軍の名前を見ると、出身地と異なる軍の司令官になっている人も多く、敵軍の指揮官になった人もいるので、これも驚きます。(ホームに戻る)

 

4.  ナポレオンは個人的には大変魅力があったようで、バイエルン王妃のカロリーネは大のナポレオン嫌いでしたが、それはナポレオンの生い立ちや、経歴によるものだったのでしょう。後に直接会ったあとは「なんと愉快な人なのでしょう」とナポレオンのファンになってしまいました。王太子ルートヴィヒ(後のルートヴィヒI世)も青年のころからナポレオン嫌いでしたが、顔を合わせるとその魅力に抗することが出来ず、別れるとまた元のナポレオン嫌いに戻る、ことを繰り返していました。ナポレオンは彼をなんとか味方につけたいとパリに長期滞在させ、ルートヴィヒはパリの議会を熱心に傍聴したほかは、もっぱら美術館に通い、これがのちにミュンヘンを芸術の都にする見識を養うことになりました。(ホームに戻る)

 

5.  大臣モンジュラ(写真)

19世紀初めのバイエルンを支えたのは大臣モンジュラです。強面のナポレオンに対して優柔不断の領主マックス・ヨーゼフを支え、複雑怪奇な国際関係の中で綱渡りの外交政策を成功させ、バイエルンを大きくし、近代的な王国を成立させたのは彼の功績です。名前から判るように生粋のバイエルン人ではなく、フランス語の方がドイツ語より得意だった彼は、啓明団員であったため追放の憂き目にあったところを、その才能を認められて、遂にバイエルンの大臣となります。総理大臣という職は無かったので、主に外務大臣として、ときにはいくつもの大臣を兼任しながら活躍しますが、あくまでマックス・ヨーゼフの補佐に徹しました。特にオーストリアの陸軍元帥シュヴァルツェンベルクがニンフェンブルク宮殿に現れ、同盟しなければバイエルンに進軍すると脅したときにモンジュラがとった作戦は見事に成功します(85頁)。ただ金銭感覚は優れていなかったようで、彼の妻は「外務大臣としてはこれ以上の人は得られないし、内務大臣としてはまずまずですが、財務大臣としては絞首刑に値します」と評しています。彼の名を附した「モンジュラ・ギムナジウム」がランツフートから南のフィルスビブルクにあります。(ホームに戻る)

 

6. ナポレオンのノート

宿営地のクロナッハに着いたとき、「ナポレオンは地方裁判官シュテッカーに彼の裁判所管区にある水車小屋、パン屋と肉屋の数について細かく聞いたが、それはおそらく長期の滞在が必要となった場合に軍隊の糧食を確保する必要があるからであろう。こうして彼は裁判所管区とその状況について非常に正確に知った。彼の前の机の上に開いてある数インチもある厚い手書きのノートには周辺の詳細な記述があったが、それはどんな郷土地誌よりも詳しいくらいであった」(本書311頁)。(ホームに戻る)